1993年(平成5年)の松下通信:川田新社長の就任

松下通信物語「未来つくりの半世紀」:Panasonic(パナソニック)再生の原点、システム事業のルーツ、松下通信工業株式会社の足跡・歴史

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1993年(平成5年)の松下通信
■川田新社長の就任
松田社長の退任は株主総会まで期限ぎりぎりの臨時取締役会まで明らかにされなかった。4年で退任することは就任の時から決意していたとのことで、後任社長には電波事業部出身の専務取締役川田隆資を指名。平成5年6月、就任した川田新社長は、「通信事業・プロAV・カーエレクトロニクスで世界のトップに。システム事業でリーダーに。」との目標を打ち出し、会社も社員も常に成長しチャレンジし続けようと訴えた。
■川田体制の役員陣容
専務取締役は、前技術本部長の小杉健一、AVシステム事業担当の唐川良一。常務取締役は、NTT出身で技術本部長の原島進、山中啓蕹、佐藤豊、人事担当の石原進。取締役は、鶴岡昴、室田俊彦、伊達義昭、千秋賢。さらに新役員として、常務取締役に経理担当の土井享、取締役に脇野征一、鈴木知二、藤原徑史が就任した。
■米国エミー賞3年連続受賞
放送業界での権威ある米国エミー賞を3年連続受賞という快挙を達成する。対象は、平成3年9月にCCD映像技術、平成4年10月にデジタルプロセスカメラ、平成5年10月がデジタルビデオスイッチャ技術だった。松下通信のデジタル映像処理技術が改めて認識されることになった。
■パーソナルコミュニケーション事業部を新設
平成5年4月、電波事業部から分離独立してパーソナルコミュニケーション事業部を新設。電波事業が担当していた携帯電話事業、PHS事業、ページャー事業が新事業部の担当となり、静岡工場も新事業部の傘下となる。事業部長には松下電器から異動した脇野征一が就任。翌6年にはホームコミュニケーション事業部を統合しホーム用電話事業も担当となる。
■ビジネスワープロ事業の移管
IBM社向けOEMパソコンを始め、パソコン事業は松下電器に移管したものの、その資産を生かしてビジネスワープロ事業は継続していた。その後、松下電器でもワープロ事業をスタートし松下グループ内での競合が顕著となった。平成5年4月、ビジネスワープロ事業も松下電器に移管し、これで完全にパソコン事業、ワープロ事業から撤退して松下電器に委ねられる事となった。

1993年(平成5年)の納入製品・販売製品
・RAMSAホール音響システムを新宝塚大劇場に納入
・業界初DSP内蔵CDプレーヤー、AMステレオ対応チューナーデッキアンプを発売
・CCTVデジタルカメラ、生産累計10万台を達成
・カーオディオ、アメリカ松下通信での生産累計150万台を達成
・プレステージカーナビゲーションシステムを発売

マスコミ関係者に挨拶する川田社長

新宝塚大劇場にホール音響システム納入

プレステージカーナビシステムを発売

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■目次

第1部:未来つくりの日々
1958年:松下通信工業誕生、発足記念式での話、引き継いだ事業、発足時の概要・組織、東京営業所の開設/ 1959年:本社工場用地取得、人材の採用、品種別組織の採用、FM無線機の事業化、販売会社の設立/ 1960年:横浜綱島に本社工場移転、労組新支部と新従業員組織の発足、電子学校の開設、録音機事業を移管/ 1961年:事業部制の導入、電話機器分野に進出/ 1962年:3事業部制から6事業部制へ、FM放送装置の開発/ 1963年:増設工事の実施、大幅増資の実施、マイクロホンの量産化/ 1964年:電子計算機事業からの撤退、東京オリンピックへの機器納入、佐江戸地区の用地取得、綱島地区第3期工事竣工/ 1965年:販売網の整備、完全週休2日制の実施、スローガン決定/ 1966年:田中新社長の就任、テレビカメラを事業化/ 1967年:郵政省への機器納入、佐江戸地区への移転/ 1968年:株式を上場、ミニコンピュータの開発、ポケットベルの開発、自動車電話の開発/ 1969年:事業部の再編・統合、事業本部制の導入/1970年:松下正治会長の就任、交通管制システムの開発、衛星搭載機器の開発/ 1971年:集積回路工場竣工、視聴覚機器事業部を佐江戸北地区へ、鉄道自動案内放送システムの開発/ 1972年:担当専務制の導入、海外に自動車電話を輸出/ 1973年:ミニコンで富士通と連携、自動放送システムの開発、カーラジオ生産1千万台を達成/ 1974年:福島県白河に工場展開、長野県松本に工場展開/ 1975年:タクシー自動配車システムの開発、POSシステムへの参入/


第2部:業界のリーダに
1976年:小蒲新社長の就任、800MHz帯自動車電話を商用化/ 1977年:小蒲社長の運営方針、カーコンポ時代の到来/ 1978年:デジタルビデオプロセッサの開発、カーステレオが北米で好評/ 1979年:ソフト会社の設立、工事会社の設立、プロ用サウンドRAMSAブランド誕生、カーラジオ生産2千万台を達成/ 1980年:研究開発体制の強化、カーエレクトロニクス時代へ/ 1981年:ビデオカメラ事業部を新設、岩手県花巻市に進出/ 1982年:アストロビジョンの開発、MCA無線システムの開発、パソコン事業での挫折/ 1983年:創立25周年での思い、組合要求でスポーツセンター竣工、光通信LANの開発、アメリカ松下通信の創業、情報システム事業部、メモリー装置事業部の新設/ 1984年:超波診断装置をシーメンスへ、集荷情報処理システムの開発/ 1985年:アメリカ松下通信の子会社化、ドイツ松下通信の設立、技術研究棟を佐江戸地区に、ショルダーホンの開発/ 1986年:石澤新社長の就任、石澤体制の役員陣容/ 1987年:Nシステムの開発、アメリカ松下通信、シカゴからアトランタへ、フィリピン松下通信の設立/ 1988年:イギリス松下通信の設立、松下通信仙台研究所の設立、電波事業部樽町工場の展開/


第3部:モバイル日本一へ
1989年:松田新社長の就任、松田体制の役員陣容、松下通信金沢研究所の設立/ 1990年:経営ビジョン「10年構想」を策定、事業本部制を再導入/ 1991年:携帯電話「ムーバーP」快進撃開始、松下通信静岡研究所の設立、静岡工場を竣工/ 1992年:テレコム研究所、AV&C研究所を設立、北京松下通信を設立、YRPへの参画を開始、カーナビゲーションの開発/ 1993年:川田新社長の就任、川田体制の役員陣容、米国エミー賞3年連続受賞、パーソナルコミュニケーション事業部を新設、ビジネスワープロ事業の移管/ 1994年:米国マグドナルド向けPOSシステム好評、カーエレクトロニクス事業部、カーシステム事業部の新設/ 1995年:YRP移動通信基盤技術研究所設立を主導、メキシコ松下通信、大連松下通信を設立、PHSサービスの開始に貢献、蘇州松下通信を設立、カーオーディオ、生産累計1億台を達成/ 1996年:YRPへの単独進出を決定、コミュニケーションシステム事業部を新設、放送システム事業部を新設/ 1997年:ITS事業開発センターを新設、発展2000年計画を策定、ITS評価実験施設を竣工/ 1998年:創立40周年を挙行、国内携帯電話が高い評価、松下通信YRP研究所を竣工、全工場が環境認証を取得、西暦2000年問題への対応/ 1999年:ETCシステムでトップに、W-CDMA端末・基地局メーカーに指定、英国シンビアン社に出資、SDカードの導入検討を開始、放送システム事業の移管/ 2000年:ソフト開発体制の強化、初の海外IR活動の実施、W-CDMA基地局装置を初出荷/ 2001年:海外での移動体開発体制の強化、欧州携帯電話事業の再編、グローバル1兆円を達成、桂新社長の就任、桂体制の役員陣容、カンパニー制の導入、携帯電話プラットフォーム開発の強化、NECとW-CDMA端末で提携、W-CDMA端末を初出荷、佐江戸新研究棟の竣工/ 2002年:630名の早期退職、初めての赤字決算、松下電器の完全子会社化へ/ 2003年:松下通信の消滅/ 

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